彼岸に思う
さかもと未明の言わずにはいられない
更新日:2011年10月05日
※月刊WizBizバックナンバー(2011年9月号)よりお届けいたします。
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昼と夜の時間が等しくなり、田や河原に血の色を彷彿とさせる真っ赤な曼珠沙華が咲き始めると、彼岸が来る。私にとって、正直一番苦手な日だ。
未だに家族とうまくいかず、嫁ぐこともなかった私は、親と共に墓の手入れもせずその日を過ごすことに、罪の意識を感じながら今年も過ごすのだろう。しかし、その日に拘わらず、ふとした時には、死者のことを考えずにはいられない。
私が心の中で弔い続けてきたのは、18歳の時に失った親友と、37歳で失った祖母だ。祖母は天寿を全うしてくれたので、ただ懐かしいという気持ちの中で弔ってきた。だが、親友は、会う約束をキャンセルしてしまった翌日に事故で亡くなったため、しばらくうつ病を患うほど本当に長いこと悔いが残った。
震災で家族や知人を失った人たちの痛みはいかばかりかと思う。突然の愛する人の死ほど、人を苦しめるものはない。そして苦しむ時、その人を失った悲しみはもちろんのこと、何かしらの「悔い」に、私たちはさいなまれるのではないだろうか。
「なぜもっと優しくできなかったのか」「あの時もしああしていたら……」。そんな思いをめぐらし続けていると、故人を偲ぶことより、自分の至らなさに苦しむことの方が多い。しかし、それも「偲ぶ」行為の一つの形なのだと思う。
苦しみや悲しみ、そして喪失感にさいなまれながらも、毎年彼岸が巡って来る。そのたびに、何かが変化していくはずだ。私は、友人の死を思って落涙せずにいられるようになるまで、20年以上かかった。だが、今やっと、懐かしく友人との思い出を偲ぶことができる。
そして、悔いに苦しんだからこそ、「友人の分も頑張って生きよう」、「祖母にいつか冥途で報告できるような生き方がしたい」と真剣に思えたのである。
結局のところ、私は常に「死者と共に生きてきた」ということを実感している。死者とはもう会うことはできないけれど、死者への思いを切り離して生きることは決してない。人生で出会った大切な人は、たとえもう遭えなくとも、何度も思い出す限り、私と共に生きている。そういう意味では、死者は決して死なないのだと思う。
さて、今自分がどんなふうに「生きている」のかを突きつけられるのも彼岸である。私たち姉弟は誰も結婚しておらず、将来、家の墓を守る者がいなくなることを、この日ばかりは考えずにはいられない。未だ諍い続ける私たち家族だが、いつかは皆が鬼籍に入っていくことは間違いない。それなのに和解できないものだろうか。皆がそう思っているはずなのに、実際に会うと、うまくやれないのはなぜなのか。
私たち姉弟が誰も結婚しなかったことと、家族で墓参りができないことには大きな関わりがあるのだと、最近思う。祖先の墓を家族で参るということは、家族や親を承認し、自分も家族をつくることを受け入れることなのだ。彼岸とはそのくらい深い意味合いを持つ日なのだろう。
私たち姉弟は、墓を守る子どもをつくるには、年を取りすぎてしまった。できることといえば、やはり折につけ親に声をかけていくことだろうか。
最近、少なくとも「自分が生きている間は墓の手入れをする」と言わなければならないと、思うようになった。今更仲のいい家族になるのは無理でも、互いが年をとっていく中で、縁あって家族に生まれたことを承認し合えないのは、あまりにも悲しい。
生者の時間には限りがある。辛い思いとも向き合い、死者の前に前向きな一歩を歩むべき日が、「彼岸」なのではないか。それしか、私たち生者にできる慰霊はない気がする。
著者プロフィール |
さかもと未明 |
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