無自覚な享受から脱する時
更新日:2011年07月06日
※月刊WizBizバックナンバー(2011年6月号)よりお届けいたします。
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あの震災から時間が経つにつれ、さまざまな問題があぶり出され始めた。何より被災者の皆さんの安全、生活の場の確保、そして亡くなられた方のご冥福を祈らずにいられないが、同時にこれからいかに復興していくのかを考えなければならない。
なすべきことを考え、実行するのは実に難しいことだ。生活に困難を来した被災者の自殺や、子どもたちの学業の中断といった二次災害が起こらないよう、われわれはあらゆる手を打たなければならない。その時必要なのは長期的な視点だ。
今回、原発をめぐる不備や問題点が明らかになった。
「絶対に大丈夫」という説明しかせずに、実は安全管理に不備があったこと。福島でつくられる電力が、ほとんど東京で消費されているねじれた現実。
本来なら東京湾に原発をつくり、何が起きても大丈夫なように必死になって管理する。これが筋の通った話なのだろうが、国防──万一の有事に備えた──を考えれば、なかなか難しいだろう。
だがそれなら、電力の供給をしてくれる地域の住民にもっと納得の行く支援がなされるべきだ。また、国民が原発の必要性と安全性を理解できる、真の情報が共有されなくてはなるまい。
そう考えると、われわれは、あまりにも無自覚に、文明の利器が生む電力を享受してきたのである。
この震災を機に、こういった「おかしかったこと」「先延ばしにごまかしてきたこと」を正すのなら、亡くなられた方々も浮かばれてくださるだろうか。
実際そのくらい真剣になり、さまざまな国の歪みが正されなくては、この災害からの復興はなしえないだろう。必要なことは、恐れずに話し合うことだ。
私は、この国の民は、私を超え、公のための道を選ぶ知性を十分に備えていると思う。
この困難な時だからこそ、自衛隊、原発、増税といった、今までタブーとなってきた問題を語り合い、100年単位での国のビジョンを全国民の間で共有していくべきだ。
思えば戦後は経済成長だけを是として追求し、この国のあり方についての議論は打ち捨てられてきた。震災は、無論起こらない方がよかった。
しかし起こった以上は、この国が再生するためのターニングポイントとしていくしかない。
今後、復興に向けて町づくりが進むだろう。その時、美しい日本を意識すべきではないのか。また堤防だけでなく次なる津波を受け流す運河の造成も考えるべきだろう。
こんな有事でも、家族や地域で寄り添って助け合う日本人。その心を誇りとする教育を復活させたい。精神の礎こそが復興の力になるはずなのだ。
たとえば被災地の方たちとともに、関東以西の人たちが、節電を心がけることに私は賛成だ。やり過ぎて経済を萎縮させてはならないが、そうやってこれまでの利便性一色、華美なライティング一色の暮らしを脱し、暗闇とともに生きるライフスタイルも構築していくべきだと思う。
安全性の面で、制約はあるだろうが、灯篭や提灯を愛でる文化の見直しがあってもいい。たとえそれがさほど明るくなくとも、平成の美意識として、世界に誇る新たな光の文化の創造につながるかもしれない。
危機の時にこそ、まず目の前の「食べて生き延びる」ことを踏まえつつ、100年、1000年単位の視点を持たなくてはならない。1000年たっても変わらぬ「人としての筋」だけは、危機の時でも曲げてはならないのだ。
戦後の失敗に学び、「筋」を取り戻しつつ、日本が一丸となって被災地を支援しよう。
著者プロフィール |
さかもと未明 |
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