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根回しで勝った関ヶ原。徳川家康の交渉術とは
歴史のひとコマから、生き方、経営、ビジネスを学ぶ

更新日:2017年01月19日

明治時代、ドイツからやってきた軍事顧問が「西軍の勝利」と断言した関ヶ原。しかし勝利したのは東軍。いったい何が勝敗を分けたのだろうか?
 


 
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■天下分け目の争いの前に戦いは始まっていた

関ヶ原の戦いは、西軍・石田三成と東軍・徳川家康に分かれ、大きな戦いが繰り広げられることになります。ただ石田三成は、周りの武将に良い印象をもたれていませんでした。

石田三成率いる文官派と、戦場で戦っている武将派と対立が起きてしまい、石田三成は暗殺未遂事件を起こされてしまいます。事前に察知した石田三成が上手く回避したことにより失敗となりましたが、武将たちとの関係の悪化が顕著に表れ、実際に東軍に大きく勢力を持って行かれることになります。

■石田三成は徳川家康の下準備に敗れる

戦いが始まる前から、情報戦は繰り広げられておりました。
徳川家康は西軍の軍師を味方につけ西軍の戦略を盗むことに成功。さらに各西軍の武将に再三寝返ることを交渉していたため、西軍自体の「士気を下げる」ことに成功していました。
士気が下がることは、戦の勝敗を分ける大事な要素。西軍は東軍との戦いの前から劣勢に立たされることとなりました。
現在でも大切といわれている、何が起きても対応できるための綿密な下準備を、徳川家康は行っていました。ここから徳川家康の慎重さがうかがえます。

戦が始まってから、その下準備に結果が付いてきます。
まず西軍の大将が、いざ東軍に向け出陣する際に家臣の反逆にあい足止めにあってしまい、関ヶ原の戦いにほとんど参加できずに終戦を迎えることになります。大きな軍勢を率いていた大将ということもあり、石田三成は予期せぬダメージを負うことになりました。

また家康は、事前に石田三成暗殺未遂事件の首謀者3名を懐柔したことにより、石田三成軍の正面を守っていた勇将を戦闘不能にすることに成功します。徳川家康が事前に各武将を引き入れていたことによる作戦勝ちとなりました。

実際に戦場でここまで予想することは難しいと思いますし、東軍の徳川家康側も関ヶ原の不利な地形で勝負を行うことになるなど想定外の状況で戦うことになりますが、下準備と機転でその不利な状況を覆すことに成功しました。

三つ葉葵

■徳川家康が行った情報戦。結果、戦局を優位に進める。

実際に戦い自体が東軍に有利だったかというと、そういう訳ではありません。
いざ西軍と東軍の戦いが始まった時には、西軍側の軍勢が多いこともあり、意外にも五分以上の戦いを行っておりました。勢いでは西軍有利といわれていたほどです。
しかし、激戦必至といわれた「関ヶ原の戦い」は、1日という短い時間で終幕を迎えることになります。

徳川家康が率いる東軍勝利のきっかけとなったのが、有名な「小早川秀秋」の裏切りです。
実際に裏切りによって西軍に所属していた武将が東軍に寝返ることになるのですが、これも事前に石田三成嫌いであった「小早川秀秋」を、当時豊臣秀吉に仕えていた際に関係を取り持つことで恩を売りこんでいました。これが石田三成を裏切り徳川家康へ寝返る要因になったといわれております。

ただ、実際に戦の中ではなかなか裏切りを決行しない「小早川秀秋」に対して、徳川家康が威嚇をしたといわれております。その行為に背中を押される形となり「小早川秀秋」が裏切りを決行。
その裏切りで他の西軍武将の裏切りが勢いが増すことになり、結果として徳川家康の圧勝という形で終幕することになりました。

徳川家康は慎重さをもって戦を有利に進めるために、いくつかの手を事前に打っていたことが大勝につながりました。ここまで動いていた徳川家康ですから、日の目を見なかった戦略もたくさんあったのではないでしょうか?

現在でも「仕事は準備で8割」決まるという言葉があるほど重要なものです。準備に余念が無かった徳川家康に軍配が上がるのは必至だったのかもしれません。