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実力100万石を築いた長州藩官僚 その活躍が日本の歴史を変えた!?
歴史のひとコマから、生き方、経営、ビジネスを学ぶ

更新日:2013年12月25日

幕末、いずれの藩も財政難に苦しんでいた。ところが長州藩だけは表高36万9000石にもかかわらず、実力は100万石以上といわれるまでに評価されていた。その秘密は、連綿と紡いできた藩官僚の優秀さにあったといわれている。
 


 
歴史の視点
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米経済からの脱却を立案

アメリカ第34代大統領であるジョン・F・ケネディが、好きな政治家として日本の江戸期の名君・上杉鷹山(うえすぎ・ようざん)の名を挙げたことは有名な話である。国内においても鷹山の名は喧伝され、困窮極めた米沢藩の財政を建て直したことはよく知られているが、江戸期中期から後期における各藩の財政悪化は相当なものであった。

この稿においてもいく度か触れてきたが、江戸時代中期よりの商人階級の台頭により、従来の米経済から貨幣経済にと移行。「君臨すれども生産をしない」武士階級が多く存在した当時の社会からすれば、幕府、藩の財政が悪化するのは当然のことであったのだ。

ところが長州藩は違った。長州藩といえば、幕末における雄藩として藩をあげて反幕府に奔走。ついには幕府を倒し、明治期以降の日本の政界を牛耳ったのだが、その淵源は米経済からの脱却を果たし、早くから経済的な自立をしていたことにあるといわれている。

毛利元就を祖とし、戦国時代には中国地方10カ国をも手中に収めていた長州藩であるが、関が原の合戦での敗戦により表高36万9000石の藩に格を落とされる(本来は取り潰しの憂き目に合うところであったが、支藩の吉川家が東軍として参戦したため、その取りなしで防長2カ国の太守として存続することが許された)。

それが幕末においては「実力は100万石以上」といわれるまでに評価されていた。通常は江戸期において時代を下るほどに経済力が衰弱していくというのに、長州藩はまるで逆だった。

その秘密は長期間計画的に実施されていた瀬戸内海沿岸の干拓事業と、米経済から脱するために紙や蝋燭(ろうそく)といった工業に力を注いできたこと。ついでは下関を中心にして日本海貿易の発展に尽くしてきたことにあるいわれている。

ちなみに先の上杉鷹山が藩財政建て直しの切り札として蝋燭の生産の奨励をしたが、いわばその商売敵として台頭してきたの長州産の蝋燭であった。そのため鷹山は、当初の思惑ほど蝋燭生産を伸ばせず、藩経営に非常に苦労することとなる。

日本の歴史を作った藩官僚たち

幕末期に長州藩は暴発に暴発を重ねたため藩全体が朝敵に貶められ、対幕府戦を一藩にて行なうという苦境に立たされたが、新式銃を購入したために戦いに勝利し危機を脱する。その支えとなったのが、100万石以上といわれた経済力によるものであった。

ではその経済の転換が何故長州藩で行なわれたのか。そこには村田清風という傑出した政治家の存在もあったが、長州藩には連綿と紡いできた藩官僚の優秀さが存在していたからといわれている。
村田清風の指揮の下、干拓事業や工業力の開発を立案・推進してきたのは、藩の行政をになう官僚たちであったのである。

幕末に桂小五郎の推奨で彗星の如く歴史の表舞台に登場した大村益次郎。いよいよ幕府との決戦が免れないこととなったときに、大村の主宰で士官養成塾が開講することとなる。いざ開講となったときに大村は病に臥してしまうのであるが、その間遺漏なく開講の準備を進めたのが藩官僚の面々であった。

病が癒えた大村が塾に出仕してみると、開塾以降必要となる一切の書類を広げてみせ、かつ塾生名簿まで大村に渡した。「この官僚の優秀さが、長州藩を発展させてきたのだ」と後に大村は述懐しているが、結果的に見れば、これら優秀な官僚が長州藩の発展と幕末期の争乱を支え、強いていえば日本の歴史を作り上げてきたのである。

現在では、さまざまな問題をが指弾される日本の官僚であるが、その姿を見たとき長州藩の官僚たちは何と思うであろうか。