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黒船来航が点火したアヘン戦争の危機感
歴史のひとコマから、生き方、経営、ビジネスを学ぶ

更新日:2013年07月10日

幕末の志士の履歴を語るのに、「癸丑(きちゅう)以来」というひとつの枕詞がある。癸丑とは干支のひとつであり、ここでは1853年、嘉永6年をさす。いわゆる黒船来航の年であり、実質的に幕末の動乱がはじまった年だ。
 


 
歴史の視点
中国茶の習慣が、陶磁器などの輸入を増大させ、イギリスの財政バランスを崩した(写真と本文は関係ありません)
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「アヘン戦争が日本にも来た」という衝撃

維新を成し遂げるために多くの人命が失われてきたが、「癸丑以来」とは、その幕末の草創期から活動をしてきたことを物語る。長州藩の桂小五郎が、維新後明治政府のあり様を弾劾するときによく使った常套句でもある。

さて、その癸丑以来となる黒船来航。日本国中に衝撃が走り、天地をひっくり返すような大騒ぎとなったわけであるが、それは「見たこともない自動的に動く巨大船がやってきた」という驚きではなかった。「アヘン戦争が日本にも来た」という衝撃であったのだ。

アヘン戦争とは1840年から約2年の間、中国(当時は清国)とイギリスの間で起きた政治的、武力的な衝突をいう。当時のイギリスの労働者たちは中国茶を好んだという。このため貿易を担う東インド会社はおおいに輸入をしたわけだが、その消費と輸入があまりにも大きかったために、イギリス本国の財政にも少なからず影響を与えはじめた。

この件を憂いたイギリスは、問題解決のためにアヘンを中国に売りつけようとしたのである。すでに植民地となっていたインドでアヘンを栽培し、中国に大量に輸出(その多くが密輸であったという!)。このため中国ではアヘン中毒患者が蔓延し、その数は増加するとともに、アヘンの対価としての銀がイギリスに流出しはじめる。

当然清国政府は、アヘンの密輸を取り締まり、広東の港にて2万箱あまりのアヘンを焼き捨て、今後アヘン貿易に携わる商人を死刑にすると宣言。これに対し、イギリスは武力をもって報いた。これが世にいうアヘン戦争である。

イギリスは、軍艦16隻、輸送船27隻という大艦隊を送り込み、清国の大都市・南京をも占領しようかという勢いで進撃。ついに清国政府は屈服し、南京条約を調印する。この条約で清国政府は、巨額の賠償金を支払うこととなり、香港を割譲し、4港を開港することとなる。さらには、アヘン貿易を清国に正式に認めさせることにも成功する(これはさすがに条約として明文化されなかった)。

わずかな情報が歴史を動かす!

さて、その後である。このアヘン戦争の悲惨な結果は、清国政府自体には何の痛痒も与えなかった。首都・北京から遠く離れた広東で起こった事故(!?)であり、長きにわたる中国の歴史のうえで外敵に敗れるということは何度もあったことだったからだ。

しかし日本では違った。徳川体制下において尊王という思想が熟成され、攘夷という考えが導入されたが、それは言い切ってしまえばスローガンに過ぎず、その源泉となる衝動はまさに「イギリスをはじめとした欧米諸国に害されつつある清国の実情」に対する危機感から生まれたものだった。

しかもそれは当時外国との窓口として小さく開いていた長崎から清の商人を通じて入ってくるわずかな情報を、武士に代表される有識者たちが共有し、国中に充満させていったのである。浦賀沖に黒船が来航したことで、その艦船の向こう側にアヘン戦争、そして戦後の清国の窮状を見、それが国中に充満していた危機意識を点火させ、一気呵成に歴史を動かすこととなる。

当事国である清体制は、その69年後の辛亥革命によって崩壊する。海を越えた日本では、針の穴ほどの小さな情報源から得た情報が、ほとんど人間を介して全国に広がり、歴史を動かし、変えていった。情報のあり方としては稀有な例ではないか。

情報過多ともいえる現在の日本。隣国の核実験の報に触れながら、どこか遠い国での話と傍観している様は、いまから150年前の日本と同じ国であるとは思えない。