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土佐藩の礎を作った野中兼山の生き方
歴史のひとコマから、生き方、経営、ビジネスを学ぶ

更新日:2013年05月22日

2006年のNHK大河ドラマ「功名が辻」で名を知られる山内一豊を初代藩主とする土佐藩の藩都であり、ここからは坂本竜馬、板垣退助など幕末の志士が巣立っていった。その土佐藩の礎を作りあげたのが野中兼山である。
 


 
歴史の視点
土佐藩の隆盛は、野中兼山の業績に負うことが大きかった。彼の評価は時を経るごとに高まっていったのである
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私欲なき兼山の一念は天に通じる

兼山は江戸初期の土佐藩の執政として腕をふるった。彼の生涯については子母沢寛が「大道」という作品で残しているが、兼山は約30年にわたって藩政を担当し、大規模な新田開発、産業の振興、港・堤防の整備、人材登用に力を尽くし、藩の基盤を作りあげた。

彼の生き様を知らしめるひとつのエピソードがある。ある嵐の夜のこと。馬すらもたじろぐような風雨吹きすさぶなか、灌漑のために築いたばかりの堤防が切れるのではないかと、ひとりの役人が見回りにでる。

見れば豪雨により、川はどんどんと水かさを増していく。そのなかで役人はふと気づく、その堤防の上で腹ばいとなった武士の存在を。兼山であった。彼は藩を預かる執政として堤防の無事をたしかめるため、嵐をついて出てきたのである。

兼山は轟々と流れいく川面を見つめながら、役人にこう語る。
「この堤は、未来永劫切れることはない。なぜなら野中兼山、私のためにひと塊の土、ひと筋の水も動かしていない。すべて藩主のため、領民のため、ひいては日本国のためだ。この心を誰も知らなくても天のみは知っている」

誰も知らなくても「無私の心」が天を動かすと信じきり、動じなかったのだ。事実、堤防は彼の確信とおりに、大嵐にも磐石であった。まさに私欲なき彼の一念は天に通じたのだ。

本当の偉大さは時とともに必ず明らかになる

彼はいう。「たとえ90歳、100歳まで長生きしても、死後ひとりもその名を伝えないのでは、虻(あぶ)も同然である。長生きのかいもない」

その言葉とおりに、兼山は多くの事業を成し遂げた。やはりそのあり様を快く思わない反対派がいた。藩主の信頼を得、兼山が登用した人材が大きな勢力となるのを脅威と感じる一派だ。

彼らは藩主の交代時をきっかけに攻勢を強め、ついには讒言(ざんげん)をもとにした告発の書を新藩主に提出する。大義名分を整え、美辞麗句で飾った告発書をだ。そのわずか10日後には、新藩主の決定により兼山は解任された。彼は自邸にて謹慎を余儀なくされた。

兼山が登用した人々の追放もはじまり、彼自身にも切腹の命が下されるだろうとの噂が伝わってきた。しかし兼山は微動だにしない。「私は幸福者だ。土佐のため、日本国のために尽くしてきた。港も堤も、河も山も、みなその兼山の血潮とともに残ってくれる」と。

結局、兼山は病をえて急死してしまう。彼の死後、藩権力はより強圧的となり、兼山の一家を1カ所に押し込め、男児が死に絶えるまで40年にわたって幽閉を続けたという。しかし兼山の偉業は、土佐藩繁栄の礎となって後世の評価を得る。先に述べたように幕末の動乱期に土佐藩がその一翼を担ったのも、淵源をたどれば兼山の業績にゆきつく。

歴史上の偉人には迫害がつきものである。それが歴史の必然であるかもしれない。しかし、その人物の本当の偉大さは時とともに必ず明らかになる。野中兼山の生き方は、まさにその一点を我々に教えてくれる。